炭住の面影
鉱業には多かれ少なかれ、そこで働く人々の共同生活の場があります。しかし、その度合い、社会性、結束がもっとも強かったのは筑豊炭坑ではなかったかと思います。
歴史、規模もさることながら、生活する人たちの熱さがその一つの要素だと思います。炭坑が閉山してから年月も経ち、やがてその痕跡が一つ一つ消えて行くなかで、どうしても見ておきたかったものの一つに筑豊の炭住がありました。
実際に人が住んでいる住居を見に行くというのは気が引けましたが、どうしても見ておきたいという思いが強く、何度か訪ねました。しかし、行っておいて本当に良かった、最後の炭住と言われたこの地区の住居もすべて更新され近代的な市営住宅になってしまうようです。
ここは、共同便所。撮影した時も現役かどうか解りません、しかし、臭いだけは現役でした。
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コメント
此のようなところが残っていたんですね。
昔の喧騒を思うと残しておきたいような気もしますが、筑豊地方では、負の遺産となっているようですね。
投稿: たいせい | 2009年9月 6日 (日) 15時20分
たいせい さま今晩は
なにせ、古いですから。保存も難しいし。
建て直すしかなかったでしょう。
三枚目は、引越しも終わって壊れた窓から撮っております。私の後ろには新しい団地が迫っております。
投稿: kk | 2009年9月 6日 (日) 20時42分
わたしが小学校3年製の頃、横浜のチべットと言われる、片田舎でしたけど、閉山した鉱夫の家族が引っ越してきて・・・今考えますと、こちらも田舎そのものでしたが、越してきた子たちのなんと素朴であったことか!
多分、もの凄い多くの鉱山に携わる人々の人口があったと思われます。
今考えますと、命をも危険にさらす厳しき労働条件で、日本を支えてきたそう言う人々がいたこと、忘れていました。
思い出す良いチャンスをいただけました。
投稿: ラ・ペルラ | 2009年9月 6日 (日) 21時08分
ラ・ペルラさま今晩は
昔、日本で生きている人々が、もっと懸命に生きていた時代がありました。
私たちは、その片鱗を知っているのですが、最近、その時の息吹が心に響いてきます。
あの息吹が私の原風景なのかも知れません。
これから先、ずっと探してゆくような気がします。
投稿: kk | 2009年9月 6日 (日) 22時28分
筑豊田川伊田の炭住じゃないですよね。
今年行ってきましたがとても一つに纏めきれなくてそのままにしていますが
まったくと云って良いほど同じ佇まいですので自分の写真と見比べてしまいました。
市役所の担当者にも話を伺いましたが残すにも億の金がいるということで
ただですら逼迫している財政状態では取り壊しになるほうが強いとのことでした。
投稿: 610 | 2009年9月 6日 (日) 22時34分
610 さま今晩は
伊田です。同じ所です。ただ時間的には、2006年と2008年なので、まだ住民が生活していた頃です。
おそらく、これが当時の炭住の面影を残す住宅地の最後のものでしょう。
実は、610様の写真を見て、その後に整備が入っているなぁ、と感じておりました。この写真を撮った時より綺麗ですから。
本当は、整備されたまま残して欲しいのですが。取り壊しも仕方が無いですね。
投稿: kk | 2009年9月 7日 (月) 00時31分