松尾鉱山跡
Camera : Canon EOS 5D, Lens : EF24-105 F4L
最近、硫黄と言えば自殺の道具の原料とか、石油や石炭の厄介な不純物のような、どちらかというと負のイメージのする鉱物です。
しかし、以前は日本の産業を支える重要な鉱物資源で、これを求めて人々は山の奥深く、雲の上まで街を作って暮らしておりました。松尾鉱山もその一つですが、東洋一と言われたくらい大きな規模のもので、全盛期には1万3千人以上の人口があったそうです。
現在でもコンクリート作りのアパート群が廃墟として残っており、当時の面影を忍ばせます。このアパート群は鉱山を見下ろすように建っていたので、鉱山はアパート群の手前から右下に下りて行きます。
そのあたり、昭和51年の航空写真を見ると一面に灰色で所々赤黒い池があるなどいかにも荒涼としているのですが、その後、土を盛り植林をするなどして自然の回復に努めているようです、また坑道からは鉱毒水が出るのでそれを半永久的に中和する施設も作られております。
この、現状回復のための努力と費用だけでも、かつて硫黄を採掘して得られた繁栄を帳消しにして、さらにマイナスにもって行きそうな勢いですが、それは人々がその時々で一生懸命頑張ってきた結果なので、仕方が無いことだと思います。
その前提で、改めてアパート群の廃墟を見ると、なんだか寂びしげに思えてきます。同じ産業遺跡でも炭坑遺跡とはまた違った寂しさです。
ここも赤外写真で撮っているのですが、思ったほどの効果はないようです。一応貼っておきます。
Camera : Fuji GF670, Lens: EBC Fujinon 80mm F3.5, Film : Rollei 400s, R72, HC-110
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コメント
産業の繁栄と衰退の繰り返しが、近代世界の歴史でもあるのですね。広いアメリカには至る所にゴールドラッシュの跡のゴーストタウンがあるらしいですし、日本でも、わたしらは石炭鉱山の衰退を目の当たりにしてきて・・・繊維・縫製業がダメになり、今や精密金型の衰退までも目のあたりにしますと、アナログ的な産業は跡何が残るの?なんてゲーム業界を横目で見ながら考えるこの頃です。
しかし、産業遺跡と言う言葉はここ最近のブームで随分クローズアップされましたねぇ~昔の内容をイメージ出来ない若者には、興味本位ですこし首を傾けたくなる取り組みもあります。
投稿: ラ・ペルラ | 2009年8月20日 (木) 21時58分
こちらの事、不勉強で知りませんでしたのでウイキを見ると
硫黄鉱山だったのですね。その特殊性故に寿命の短い鉱山だったのでしょう。
まだ、ココで生まれ育った方が多数いらしゃるでしょうが、第三者が見ても
その栄枯盛衰ぶりが伺える場所ですね。
投稿: SCR | 2009年8月20日 (木) 22時56分
昨年は足尾銅山へ行ってきました。
鉱毒で真黒になった石碑などや沈殿池が恐ろしい有様でした。
硫黄鉱山と云えば九重の星生山の鉱山は登山の途中に通らせてもらいましたが
脇を通るだけで呼吸困難になるのに採掘の人たちは噴気の上がる坑口で仕事をしていました。
その雰囲気が良く強調されていて効果抜群ですね。
投稿: 610 | 2009年8月20日 (木) 23時23分
ラ・ペルラ さま今晩は
ここも勘違い野郎がサバイバルゲームをしてBB弾の玉だらけらしいです。
日本の鉱業に関しては、少し急ぎすぎたのでは無いかと、つくづく思います。今後問題になるだろレアメタルも、日本に高密度であったはずなのですが、当時は使い道もなくズリに捨てられました。そして、もう掘るところも無い。
ただそれは、今の繁栄の為に通らなければならない道だったのですから、仕方がありませんね。
SCR さま今晩は
ここの歴史を見ると、八幡平観光ホテルが完成、とあるので、従業員の再就職の為に、鉱山会社が建てたものかも知れません。
しかし、そのホテルもスキー場も倒産してしまったようで、管財人を含めた債権者会議で、ホテルの撤去だけでも市が負担してほしい、みたいな話になっていたような。
本当に寂しいですね。
投稿: kk | 2009年8月20日 (木) 23時23分
610 さま今晩は
鉱山の中でも硫黄鉱山が一番寂しいイメージがあります。
これは、現在、原油からの脱硫処置によって安価に得られるようになったことと、鉱山として硫黄を採掘する大変さのギャップからだと思います。
さらに、鉱毒処理という負の遺産も後世に残します。
でも、これは通らなくてはならない道だったし、おおくの人が苦労したことでもあります。
受け入れなければならない事ですよね。
投稿: kk | 2009年8月20日 (木) 23時58分
実際写真のアパートに住んでいた元住人です。木造長屋の社宅が山を埋めるように立っていた当時の写真をみれば一時2万人住んでいた事が実感できると思います。
現在の姿では当時の繁栄は想像できないかと感じます。
当時はアパートの周りは今のように緑に囲まれてなくてだいぶ禿山のようだと記憶しています。それと近くの露天掘りでは発破の前にサイレンが鳴ってその時は住民は皆社宅に避難しなければなりませんでした。それと精錬の度に紫の排煙が山中を覆いつくしてました。
あのような最新鋭のアパートが建てられた理由の一つに激しい冬の天候があります。
なにせ標高1000mの山の上ですから夏は涼しく冬は地獄でしたね。
冬になると毎日大吹雪ですから下校の時はいつも体育館に集められて同じ社宅に住んでいる児童同士でお互いにグループを作って
抱き合いながら下校したものです。
でも大自然の八幡平国立公園と隣あわせですから温泉とかハイキングとか冬のスキーとかかなり恵まれていたと思います。
投稿: 高田 | 2010年4月20日 (火) 05時04分
高田さま今晩は
貴重なお話、ありがとうございます。
その当時の写真は八幡平ユースホステルの側のバスの終点の待合所で見ることが出来ました。
あの場所に2万人だと、完全に街ですね。ラピュタみたいな天空の都市だったと思われます。
子供の頃過ごした風景は不思議なもので、世間的には一般的でない光景も、その人にとっては原風景になります。私にとってみれば、それが田んぼの油田なのですが、高田さまにとっては、天空に開かれた鉱山なのですね。
投稿: kk | 2010年4月20日 (火) 23時03分
正に子供の風景は天空に開かれた鉱山です。仰るとおりです。大自然の中でありながら同時に公害と隣会わせだったという皮肉なめぐり合わせで、実際小さい時に公害の病気らしきものにかかり、喘息的な症状になったと父親に最近教えられました。
私は9歳まで鉱山におりましたが、遊び場というと冬は直ぐ近くに八幡平スキー場があり、歩いてスキーが出来ました。秋は鉱山中学のグランドで野球、それとトンボがそれこそ何十万匹も飛んでましたのでそのトンボ捕り。
そして、今思えばその当時の(昭和44年)鉱山施設は衰退の末期ですから
よく友達ともう使用されていない”がらっ”とした鉱内施設を歩き回っていました。何にも使われないトロッコがいたるところに置かれていたのでそのトロッコを押したり、隠れごっこをしたりでしょうか。
まだ昭和40年あたり迄は沢山の鉱山労働者で賑わっていたと記憶しております。
毎年田舎に帰って年老いた父親と一緒に車で松尾鉱山跡を訪れるのですが当時との大きな違いと申しますと山の麓(柏戸、かつての松尾鉱山鉄道の始発駅)から鉱山跡まで至る所に木が生え、緑で覆われている事です。 何度か児童同士で山の麓まで降りて歩いて鉱山に歩いて帰ってくる遊びをしたのですが、昔は麓から簡単に山まで直接、帰れる程でした。(木が生えてないので視界がいいという意味です。)
その差に愕然といたします。
個人的には早く取り壊して欲しいと思ってましたが、保存したい方もいるみたいで、本当は何が最善の処置なのでしょうか?と考えています。
投稿: 高田 | 2010年4月21日 (水) 07時33分
高田さま今晩は
私は、文化財として保存してもらいたいと考えております。これは、まさしく昭和の軌跡であり、産業遺跡であります。
硫黄は、昔、重要な鉱業品であり、日本はこれを輸出し、多くの人が従事していた事を残すべきなのです。
そして、そこに人が住み、家庭をはぐくみ、多くの子供が育ち社会に巣立っていったことも。
投稿: kk | 2010年4月21日 (水) 22時55分